註
(1) 
 一九八〇年というと、高橋留美子の『めぞん一刻』が始まった年でもある。われわれはよくその主人公の五代裕作に似ていると言われ続けてきた。しかし、これは誤謬だった。なぜなら、われわれははるかに彼よりひどい生活を送ることになってしまったからだ。われわれと比べると、彼はずっと恵まれている。われわれは、三〇歳をすぎても、金ない、職ない、力ない、運も、要領もなくて、根性もないし、頼りがいもなければ、甲斐性もなく、そして情ないという状態である。技術も免許も免状も特になく、特技といっても、ビー玉遊びと無駄話をすることくらいであり、おまけに目標もない。そんなわれわれはエンゲル係数の極めて高い生活を余儀なくされ、見事に、どこに出しても恥ずかしくない堂々たる社会の落伍者となってしまった。平野謙はわれわれの姿を見たなら、完璧な生活不能者として涙を流しながら、われわれに頬擦りすることだろう。今や、われわれの理想は『三年寝太郎』である。見よ、あの見事なパラサイト・シングルさとおめでたいハッピー・エンドぶりを!いずれ、われわれもそうなるであろう! 
(2) マルクス=エンゲルス、『ドイツ・イデオロギー』、古在由重訳、岩波文庫、一九五六年、六六頁
(3) 大江健三郎、「独特さの種々相」、『文藝春秋』、一九八一年三月号、三一七頁
 文学と風俗が乖離し、風俗が文学的力を失うことは危険である。風俗化を嫌った脆弱な文学者の禁欲主義がファシズムを招いたのだ。文学の風俗化こそがその「批評性」を発揮できるのである。大江は想像力を想像力にとどめられず、対抗権力として考えていたことがあった。「文学の批評性」が「もっとマシ」かどうかはともかく、田中が大江以上に世俗的なことははっきりしている。つけられたクレームは数知れず、田中は政治的・経済的・社会的・風俗的に、すなわちありとあらゆる分野で最も発言している文学者の一人だ。田中は『言いたいこと、言うべきこと』(扶桑社、一九九四年)という本を書き、言うべきことを重視している。反人権的態度は容易である。「言いたいこと」を言えばいいのだから。一方、人権擁護は、言わざるを得ないことを「言うべき」なので、困難である。従って、短絡的発想の反動は前者をとる。
 田中の批評方法の原理は、とてもそれと呼べないものである。田中は批評を体験的に書いている。体験に基づいた彼の批評に理論的密度を要求することに意味はないのだ。軽快なフットワークに支えられた体験に裏打ちされているところに、田中の批評の説得力がある。彼の思考はある体験の過程を経て形成されてきたのであり、ア・プリオリな原理を前提にしていない。田中は自分の方法に十分に自覚的である。彼は『新・文藝時評 読まずに語る』(河出書房新社、一九九五年)では作品だけに着目して、それを評価すべきだという姿勢をとっている。「文学史の流れの中での位置付けだの、他の作家の作風との比較だの、同じ人物の他の作品との比較だので時評に重みを持たせるのではなく、あくまでも扱う作品それ自体を批評することを心がけたかったんです」(一五八─一五九頁)。田中は作品を同時代的に読むことを主張しているわけだが、それは、若き吉本隆明と同様、ライプニッツ的思考である。これは、事後的解釈・評価に頼らないのだから、思いのほか、困難な姿勢だ。いかなる立場も相対的であるとしても、懐疑主義的な相対主義に陥ることのない立場に田中は立とうとしている。各作品はそれぞれ自立していると同時に、現実に根ざしていなければならないという点を田中は読む。これは一つの実践的決意だ。作者の素行や努力が作品を補うものにはならない。田中は自分の体験の所産を受け入れているだけなのであって、それを原理として組み立てたり、原理によって批判することは見当違いなのである。
 伊藤正孝は、『ファディッシュ考現学2』(新潮文庫、一九九〇年)の解説「仮面舞踏会の不吉な人影」(二四九頁)において、田中のこうした方法について次のように述べている。
 現代はとめどない自己露出の時代である。有名人たちの自己露出がまたメディアにとって売り物になる。彼らの背後にはジャーナリズムという鼓笛隊がついていて、自己顕示の踊りをはやし立てる。踊っているうちに仮面と肉顔の違いがわからなくなってくる人がいる。あるいは仮面が肉顔にくい込み、仮面の陶酔にわれを忘れている人がいる。そういう実像からほど遠い虚飾の人物が、これまた肉声から何オクターブか上ずった声で、社会的な発言をする。いろいろな分野に大小の神様が林立し、彼らの真贋がきわめて分かりにくくなってきた。
 
 田中は、ルビによるダブル・ミーニングを駆使しているように、公的立場と私的立場を区別しない。けれども、この公私をわけない認識はスキャンダルへの鋭敏な嗅覚を発揮するタブロイド・ペーパーのそれではないのである。そもそも近代小説は、その起源の一つであるダニエル・デフォーの『ロビンソン・クルーソー』も新聞の三面記事をモデルにしているように、本来、スキャンダルをモチーフにしている。それはブルジョアの欲望を満足するものなのだ。田中は、『新・文藝時評』において、「ロビンソン・クルーソー的な“作業”が小説だ」(一三二頁)と言っているが、これは、彼の意図とは別に、文学史的に的を射ている。小説家のスキャンダル追及の姿勢を不当だと非難したところで、近代小説から見ても、決して邪道ではない。それはともかく、「仮面舞踏会」の参加者の公的発言は、田中に言わせれば、私的な、一個人としての体験に基づかない説得力に欠けるものでしかないのだ。田中にとって、体験が力であるとすれば、公私の区別はナンセンスなのである。Private eyes are watching you.
 田中は、NHK総合テレビで一九九五年一二月一五日に午後一〇時三〇分から放映された『35歳──ボランティアは楽しい!?』の中で、ボランティアを振り返って──この後も、神戸に、定期的に、長く続けている−−次のようにコメントしている。
 分業化社会でみんな歯車になってて、ハイテクな社会で人の顔がみえてこない便利さじゃないですか。僕が(神戸でボランティア)やっててロビンソン・クルーソーになれるなあって。犬はいたけどご飯も作ってお魚もとって家も作って、効率悪いかも知れないけど、でもすごく数字で換算できない心の充足感……みんな自分さがしなんですよ。
 そこには、確かに、社会契約論者の展開した「自然状態」があったのだ。なるほどトマス・ホッブズの警告した「万人の万人に対する闘争状態」(『レヴァイアサン』)もあったが、『エミール』で、『ロビンソン・クルーソー』を絶賛したジャン=ジャック・ルソーが説いた「悪徳を知らず、自己保存と同情という本能にしたがって、満ちたりた生活を送っている」(『人間不平等起源論』)平等な状態でもあった。「自然状態」は危うい真空地帯であり、この「闘争」と「同情」の二つの要素をはらんでいる。「自然状態」は極端な状態であり、経済学が恐慌という極端な状態から考察を始めるように、社会契約論者もそうするのだ。そして、それは、田中にとって、ある種の理想状態でもある。
 田中の理想を、オーギュスト・ブランキの『経済学史』に倣って、「ユートピア的社会主義」と非難することは容易であろう。彼自身、この「ロビンソン・クルーソーになれる」ことが、現代社会で、主流になるとは考えていない。あくまで田中の理想は「分業化社会」や「ハイテクな社会」に対するアンチテーゼであり、実現すべき理想ではなく、すでに失われてしまったであろう賞賛すべき理想なのである。それは、手塚治虫流に言えば、「失われた世界」にほかならない。田中において、郷愁は言動の根拠であるだけでなく、道徳的基準にさえなっている。一六五一年生まれのロビンソン・クルーソーは、父親に上も下も煩わしいことが多いから、中間の身分でいるのが最善だと言われていたが、母親に外国に出てみたいと相談したけれども、父親に従うようにと勧められてしまう。それを耳にした父親は悲しみ、かの息子を怒る。彼は、そんな状態の中、家出をし、あの島に漂流するのである。田中は「犬はいたけどご飯も作ってお魚もとって家も作って、効率悪いかも知れない」ことをして、忘れてしまった「自分」をさがし、「すごく数字で換算できない心の充足感」を発見する。田中は『なんとなく、クリスタル』でも「アイデンティティー」の問題をとりあげていたが、その概念は「日本とアメリカ」、「男と女」、「老人と若者」といった明確にわりきれるものではなく、一般的なものと比べて、異質だった。田中の「アイデンティティー」は、当時はまだ自覚的ではなかったけれど、郷愁と想起による自己の生成過程の再創造である。
 田中は、敗戦直後の、すべてを手探りで始めなければならなかったあの時代に、ある意味においては、好意的である。田中は七〇年代後半の日本を「モラトリアム国家」と批判したけれども、江藤淳のように、その原因を連合国の占領政策に遡り、それを非難することはしない。物はないが、精神と社会の風通しはよかった。並木路子の『リンゴの唄』が流れ、大下弘のホームランが大空に放たれる中、人々は廃墟からなんとかたちあがろうとしていた。しかし、材料もなければ、設備も、技術も、知識も、金もなく、人もいない。あるものを創意工夫して生み出さなければならなかったのだ。試行錯誤の連続で、「効率」は悪かったが、確かに、生きているという「充実感」はあった。田中は『これが基本です。』という本を書いているが、何が基本なのか具体的には示してはいない。それを書いてしまってはマニュアルになってしまう。「歴史を振り返ってみれば、政治も経済も文化も、何をするべきか、しか考えず、一人一人の顔が見えないまま、唯々、群れを成して走りつづけるのみだった此の国は、であればこそ余計、理論が崩れ去った今こそ、どうあるべきか、に思いを至らせることから始めねばならない、と思うのです。そうして、一見、愚直とも思えるこうした営為の積み重ねこそが、一人一人の顔の見える新たなる理論の構築を可能にするのだと思います」(『これが基本です。』、扶桑社、一九九二年、七─八頁)。焼け野原のころにはわれわれはすべてをそうしていたのだ。それは事実だった。しかし、日本人はそんなことはもう忘れてしまったかもしれない。あの焼け野原の時代、商品としての天皇制の価格は下落した。それを考えると、今の値段は不当表示である。われわれは天皇制を浪費して、価格をもっと下げなければならない。天皇制を支えているのは日本人のブランド信仰である。『なんとなく、クリスタル』の登場人物を非難する人は、天皇制を維持し続けるかぎり、日本人は最悪のブランド主義者であることを自覚しなければならない。
 ファシズムは安吾の言う「堕落」に耐えられない脆弱な知性の反動である。田中は、『なんとなく、クリスタル』以降、それ以上の小説を書きえていない。これは彼の小説家としての能力の問題ではなく、書くことを通じてのみ把握されるような事実と直面することがなかったからである。七〇年代から八〇年代への社会構造の変化と遭遇し、田中は意識していようといまいと事実に触れ、時代を封印しようとしたのだ。その一瞬がすぎるとすぐさま、再び時代は封印を解いて吹き出し、事実を封印そのものが覆い、修飾していく。八〇年代は、そのため、田中が批判した「なんとなく」の空気が支配的になったのである。基本的に、あのボランティア活動が示しているように、安定期ではなく、激動期の作家である田中が『なんとなく、クリスタル』以上の作品を書きうる潜在性は認められるが、それが達成されるのは、かの真空地帯の中、彼が書くことによってしか解決できない事実に出会うかどうかにかかっている。そして、田中が線形代数や行列に基づいた作品世界を描くとき、その文学的能力が発揮されるだろう。
(4) 柄谷行人、『反文学論』、冬樹社、一九七九年、二二八頁
(5) 加藤典洋、『アメリカの影』、河出書房新社、一九八五年、七─二九頁
 『アメリカの影』と言うと、インディペンデント映画の父ジョン・カサベラスの監督第一作目を思い起こす。レリア・ゴルドーニ、ヒュー・ハード、ベン・カールザースが主演し、ニューヨークに住む三兄弟の日常を通じて、「アメリカの影」とも言うべき人種差別問題に切りこんだセミドキュメンタリーだったが、一九六〇年に公開されたこの映画に加藤の作品は遠く及ばない。
(6) 
(7) ノーマ・フィールド、「『なんとなく、クリスタル』とポストモダニズムの徴候」、上野直子訳、『現代思想』、一九八七年一二月臨時増刊、二三─三五頁
(8) 
(9) 『なんとなく、クリスタル』、四四頁
(10) 同前、五八─六〇頁
(11) 同前、一三〇─一三二頁
(12) 江藤淳、「三作を同時に推す」、『文芸』、一九八〇年一二月号、二六九頁
(13) マルティン・ハイデガー、『存在と時間』中、桑木務訳、岩波文庫、一九六二年、二五─二七頁
(14) 『存在と時間』上、二三一頁
(15) 『なんとなく、クリスタル』、一九八頁
(16) 同前、一七四─一七八頁
(17) 『存在と時間』上、二三二頁
(18) 『なんとなく、クリスタル』、二一四─二一六頁
(19) 
 セックスにしても、
「高圧電流が体の下部にビビーンと走って、エレベーターが急降下していくみたい」
なものとは違って、片岡義男の世界みたいな、
「二、三分で終わっちゃう、ベッドのなかの出来事」。
 片岡義男だけでなく、われわれは田中の作品にも性を感じないが、田中の『昔みたい』(新潮文庫、一九八八年)の「あとがき」(三一一─三一三頁)における次のような告白がその理由を示している。
 一生の間に、ただ一人の相手だけを愛し続けることが出来るならば、どんなにか素晴らしいだろう。真剣に考えていた十代の一時期があった。それは程度の差こそあれ、誰もが同じように経験する感情なのかもしれない。けれども、祖母も母もキリスト教の信者という家庭に育ったこの僕は、人一倍、そうした気持ちが強かったように思える。
 中学時代、初めて恋愛と呼べる形の付き合いをした僕は、夢中だった。その恋がずうっと続くことを望んだ。いや、そうなることを信じていた。「小さな恋のメロディ」の世界だったのだ。なのに、クラスメートだった相手の女の子は、もちろん、僕のことを大好きではあったのだろうけれど、二人の将来に関しては冷静だった。
 十五年以上の歳月が経った今も、一人の相手だけを愛し続けることが出来るならば、どんなにか素晴らしいだろうという、その考えには変わりがない。笑われるかもしれないが、本当だ。けれども、夕食を一緒に摂った、また新しい恋愛相手を部屋まで送った帰りがけ、車を運転しながら、しばしば、次のようなことを考えるようになった。一体、一生の間に何人の異性に、私たちは恋愛感情を抱くのだろうかと。
 カソリックの神父は、結婚式の後の説教の中で、次のような内容を述べることがある。「なぜ私たちは今、ここに集い、若き二人の結婚を祝福するのでしょうか。二人は永遠の愛を誓い合いました。これから長い道のりを、いつでも共に歩いてゆかねばなりません。けれども、その長い道のりの間には、二人の愛が揺らぐことも時にはありましょう。愛とは、いつの世でも常に移ろい易いものであることを、私たちは今ここで、もう一度、確認し合わなくてはなりません。そうして、愛が移ろい易いものであればこそ、逆に二人は何時でも共に手を取り合って進まなくてはならないのです。今、ここに集った私たちも、皆、この危なっかしいヒヨコたちの愛が永遠に続くよう、見守っていかねばならないのです。そのことを神に誓うため、私たちは、今日、ここに集い合いました」。
 移ろい始めた愛を繋ぎ止める努力をすることもなく次の恋愛に移ってしまった場合も幾度となくあるであろう僕は、けれども、こうした神父の説教が好きで、友人の結婚式のスピーチでも引用することが多い。そうしてその度、自分の体に震えを感じる。
「ただ一人の相手だけを愛し続けること」は決して「素晴らしい」わけではない。愛はニヒリズムである。田中が「たった一人の女」を見出せないのは、真の愛に到達できなかったからではなく、愛そのものがニヒリズムだという認識の欠如である。恋に一般論は適用できるが、愛には不可能だ。愛は自己憐憫=自己嫌悪ではないから、苦悩を軽減することはない。ただ苦悩を怨恨に変換することなく、苦悩のままにして人を生きさせる。恋は多神教的・無媒介的なエロースであり、愛は一神教的・媒介的なアガペーである。しかし、愛は相対的・具体的な他者である単独者に向けられた欲望の性と切り離すことができず、超越者・絶対者・抽象者に対する信仰でも、その下での誓いでもない。愛や性は単独者の生成過程に基づいた生への意志である。われわれにとって、男性はというものは一般概念にすぎず、女性は女性一般ではなく、具体的な個人を指す。従って、田中の作品だけでなく、われわれはほとんどの作家の作品に性を感じられない。
Do I ever wonder?
More than words can say
Heaven knows it’s hard enough to
pray
Let me tell you something
There’s a change in me
Even now you’re gone you’ll
always be
My only love
Does it seem so funny
For a fool to cry?
Do you know the meaning of
goodbye?
There’s a river flowing
By a willow tree
When you need to know remember
me
My only love
Let me tell you something
More than words can say
But they’re all I have, no other
way
There’s a river flowing
By a willow tree
When you find you’re there
remember me
My only love
(Roxy Music “My Only Love”)
(20) ジャック・デリダ、『尖筆とエクリチュール』、白井健三郎訳、朝日出版社、一九七九年、五四頁
(21) エマニュエル・レヴィナス、『全体性と無限』、合田正人訳、国文社、一九八九年、三九一頁
(22) 「三作を同時に推す」、二六九頁
(23) 中村光夫、『中村光夫全集』第四巻、筑摩書房、四六三─五九八頁
柄谷行人、『意味という病』、講談社文芸文庫、一九八九年、一〇九─一五一頁 
『ぼくたちの時代』、一四頁 
(26) 「三作を同時に推す」、二六九頁
(27) 
江藤淳・蓮實重彦、『オールド・ファッション』、中公文庫、一二七─一二八頁 
『なんとなく、クリスタル』、八三頁 
 われわれもこの田中の意見に同意する。この作品の登場人物の何人かも、多くの「文芸」評論家や「文芸」記者と同様、煙草を吸っている。われわれは、田中と同じように、煙草を吸わないからではないが、この点が気に食わない。どうせなら、オーソン・ウェルズグルーチョ・マルクスばりに、葉巻をふかして欲しいものだ。葉巻の愛好家には愛煙家とは違うという自負がある。
 葉巻はキューバやドミニカ、ホンジュラス、ジャマイカ、メキシコ、ニカラグアなどが主な産地である。モンテクリストNo1から5やモンテクリスト・ホイタス、コイーバ・シグロTからX、コイーバ・エクスタシード、サンルイレイ・コロナスなどのアバーヌと呼ばれるキューバ製、ダヴィドフNo1から3やマキシム・ド・パリ四部作(オムニバス、インペリアル、ピストロ、ベルエポック)といったドミニカ製が、最近では、流行している。レーニンも最もよく知られたユダヤ系の葉巻商人ジノ・ダヴィドフから葉巻を手に入れていた。あとは、ダンヒルが、葉巻およびその道具においても、豊富である。葉巻の味は産地の天候だけでなく、政治情勢が不安定な地域が多いので、政情によっても左右されるので、注意がいる。
 葉巻は葉で覆われているほうが吸い口である。この部分を専用のカッター−−鋏形のシガーシザーや真ん中の開いたギロチンカッターなど−−で切るわけだが、吸い口が尖っている種類のものは切り方によって断面積が変わり、味が違ってしまう。葉巻に巻かれた紙の帯は、外側の葉が剥がれるのを防ぐために、アメリカでは、とらないようにしている。ただし、ヨーロッパでは、ラベルを剥がす傾向にある。
 葉巻の着火はなかなか骨の折れる作業だ。まず、煙草と違い、火が大変つきにくい。先端に均一に火がつくように、指先で葉巻を回しながら、炎の外側を使ってつける。この際、黒く焦がさないことに気をつけなければならない。炎に先端を突っこむなど論外である。
 さらに、葉巻はデリケートだ。葉巻に火をつけるのは木のマッチかブタンガスのライターが好ましい。ほかの道具では、炎に含まれる化学物質が葉巻の味を損なってしまう。火が長持ちするように長い軸の葉巻専用の杉のマッチが一番である。
 葉巻を一本ふかし終わるのには、四〇分から一時間くらいかかる。葉巻は化学物質が使われていないので、吸わずに置いておくと、火が消えてしまう。吸いかけの葉巻は、ちょっと休む際には、シガーセイバーに入れておく。また火をつけるときは、灰に残ったニコチンやアンモニアを落とすために、最初と同じように、時間をじっくりかける。乾くとばさばさになってしまうので、保存するには、入れた本数に応じて温度や湿度を自動調整する専用の加湿機を使うべきだ。外に持ち歩くときは、折れないための専用のポケットケースがある。
 煙はふかすのであって、決して、肺に吸いこんではならない。葉巻は味と香りを口の中で楽しむものなのだ。従って、葉巻の愛好者は、一日に二〇本前後もふかしていたフロイトがそうだったように、肺ガンではなく、喉頭ガンになる危険性が高い。それにしても、われわれは、フロイトほど、葉巻を手に持っている姿が素敵な人物をほかに知らない。
(30) 『ぼくたちの時代』、一一─一二頁
(31) 同前、一四頁
(32) 『ファディッシュ考現学2』、九八─九九頁
(33) 柄谷行人、『言葉と悲劇』、第三文明社、一九八九年、九六─九七頁
(34) 
(35) 
(36) 『神なき国のガリバー』、一一四─一一七頁
(37) 『なんとなく、クリスタル』、二二二頁
(38) 『ぼくたちの時代』、一六頁
(39) 
 その今井氏(=今井俊満)が、草月会館で「花鳥風月と飛花落葉」個展を開きました。その昔、星条旗のジーンズを履いてキャンティに登場したこともある氏を知る人にとっては、森有正が晩年、日本的なるものへと戻っていったのと同様、「お前もか」と複雑な思いにかられる、屏風絵のような作品が飾られています。
 日本人は皆、皮膚の衰えと共に、そうなっていくのでしょうか。着物を着て、三人目の妻である夫人や、まだ小さい子供達と一緒に靖国神社の前で撮った写真の載った画集『花鳥風月』を見ながら、そう思います。
 こうした田中の湿り気を帯びた冷笑・嫌味が気に触る人もいることだろう。それは田中があまりにも生真面目すぎるからである。おそらく年齢を重ねれば重ねるほど、田中にはいい味が出ていくに違いない。『社交性の社会学』のゲオルク・ジンメルのごとく、社会性に社交性を対置する彼の文体は、年寄りの社交的洗練において、初めて、昔の色気がにじみだすような姿で威力を発揮するものだ。田中の「恋愛」は社交的である。社会の落伍者であるわれわれには、社会性と同様、社交性も稀薄であるから、ただ生活しかないが、「皮膚の衰え」があっても、神社に行かないだろう。このように「皮膚」という言葉を多用する田中が『東京ペログリ日記』を発表した際、われわれはそれを『東京ペラグラ日記』だと勘違いしていた。田中が口内炎になりやすいと聞いていたので、ビタミンB群に属するナイアシン、すなわち抗ペラグラ性ビタミンが不足気味の自分の生活を、自嘲をこめつつ、ペラグラのような現代社会を比喩的に批判していると思っていたものだ。ナイアシンは補酵素NADやNADPの成分として生体酸化の水素伝達を行い、胃腸管の働きを正常に保ち、皮膚を健康にするという生理作用をする。そのナイアシン欠乏症の一種であるペラグラの主症状は皮膚炎や消化器障害、精神障害である。勘違いとは言え、われわれの発想もなかなかおもしろいと妙に満足した覚えがある。
 ジーンズを礼讃し、「京都へ来ておばあちゃんをナンパしよう」と提唱した森毅は、若いころ、歌舞伎病にかかったことをふりかえり、『あたまをオシャレに』(ちくま文庫、一九九四年、二三九─二四〇頁)において、年をとってからの日本回帰について次のように述べている。
 ヨーロッパを引きあいに出したが、江戸趣味というのも、一種のエキゾチズムであって、異国に行くかわりに異時代にタイム・スリップしただけのような気がする。それは、このごろのレトロ趣味に通ずる。
 それは日本回帰ではない。それに、ぼくぐらい本格的に、若い時代に江戸しておくと、ジャパネスクには免疫がある。日本人とはとか、日本文化とはとか言われても、少しもおびえずにすむ。年をとってから日本回帰などする老人は、若い時代に江戸した経験がないからではなかろうか。
 こう考えてみると、若いころの病気というのも、それなりに役にたっている。そのころの知識は忘れたが、その過激さの思い出ゆえに、日本主義者どもを鼻であしらうことができる。
 実際に、ちょっと江戸に凝ってみれば、「日本的」と思われているものの大部分が、明治以降に属することに気づく。そして、江戸に戻ったところで、「江戸かぶれ」というのが、現代人にとっては、「フランスかぶれ」や「アメリカかぶれ」と変わらぬ。
 ちなみにぼくは、いくらかは、フランスかぶれでもあり、アメリカかぶれでもある。
 それゆえ、永井荷風も石川淳も、決して日本主義者にならなかった。日本文化というものも捨てたものでないと思うが、そんなところで、民族の文化遺産なんてアホなことを言う必要はない。江戸には、日本民族なんて存在しなかったのに。もちろん、君が代も日の丸もなかった。
(40) 
(41) 「Epilogue エピローグ」、『ハイライフ、ハイスタイル』、二一三─二一五頁
(42) 『ファディッシュ考現学2』、九七─九八頁
(43) 
(44) 「理論、思想、運動としての社会主義、共産主義の存在を認めることの意義」、『これが基本です。』一六四─一六七頁
「キナ臭い皮膚感覚欄塾の現代、今こそ歴史としてのマル経を振り返れ」、『神なき国のガリバー』、六二─六五頁